かなり前に歯抜き師の話を書かせてもらった。覚えておられるであろうが、居合抜きなどを見せて人を集め、それから歯を抜いていた彼らは医術者ではなく香具師であった。お若い方などは香具師ではおわかりいただけないかも知れない。今で言う祭の夜店や見世物などを生業とする人のことである。
江戸時代の民間の歯科治療は歯抜き師と入れ歯師が担っていた。では、天皇や将軍、公家や大名など高貴な人の治療は誰がやっていたのだろう。江戸時代の幕府役人を記した『武鑑』という本を紐解いてみれば、医師の項に口中科というのが載っている。
口中科の響きで、皆様はどのようにお感じになるだろうか。私は最初、歯槽膿漏など軟組織の専門家かと考えていた。その考えは正しくもあり、まちがってもいた。
かつて幕府のお抱え医師を主人公とした物語を書いた。今回のエッセイを書くにあたって集めた資料をひっくり返してみたが、口中科についての記述は少ない。なぜなのかと調べてみると、口中科は代々門外不出で治療法を秘匿してきたことがわかった。
歴史からいけば、口中科というのは医学の誕生とともに生まれていたと思われる。ただ、歴史に出てくるのは、奈良時代のころである。さらに具体的な治療についてはっきりするのは、鎌倉時代の末期である。花園天皇御世正和二年(一三一三年)五月十八日の項に当時の典薬頭(今で言うなら宮内庁病院院長か)の和気全成という者に歯痛で顔が腫れたので軟膏を塗らせたとの記録がある。ただし、これは私が知った限りで、もっと古いものはあるはずだ。
ちなみにこの花園天皇というお方は、かなり歯が悪かったようで、六月にも軟膏を塗っている。鎌倉時代と言えば、すでに朝廷の権威は落ち、武士に荘園を押領されて収入が激減、とても甘い物を摂取できる状況ではなかったはずなので、花園天皇の病名は歯肉炎か、歯槽膿漏の急性発作の可能性が高い。
今なら切開・排膿・抗生物質投与、症状が落ち着けば歯石除去から肉芽切除の流れになるだろうが、ただ、この時代天皇の身体は完璧で傷一つない玉ぎょくたい体だとされており、外科的な対応ができなかったためこうなったのではないか。
もちろん、口中科に穿刺・切開・抜歯の技法があったことは、江戸時代の歯科医療秘伝とも言うべき『口科叢書』(京都大学貴重資料アーカイブ蔵)に載っていることからもわかる。
いつの時代も患者さんの環境で医療は変わらざるを得ないようだ。
No.187