江戸の敵を長崎で討つ

No.179

tt本来の意味は「意外な場所や筋違いなことで仕返しをする」であり、執念深くどこまでも追いかけて恨みを晴らすというのは誤用になる。さて、本題に入る前にお詫びをしておきたい。今回の話もこのことわざにはかかわりがなく、江戸と長崎という地名が出てくるというだけで、題名に使わせてもらった。

 今まさに、世界はコロナウイルスによる感染症に攻められている。どこが原因で発生したのかは後年の研究に任せるとして、その伝播はやはり人の流れにあった。ふと思いついて、江戸時代の伝染病の流行について調べてみたら、大きなものだけで40回を超えている。そのほとんどがインフルエンザではないかと考えられており、麻疹、水痘が続く。ちなみにもっとも被害が大きかったのは、1858年7月にアメリカの軍艦ミシシッピ号が長崎に持ちこんだコレラで、8月には大坂、江戸へ、9月には奥州に拡がり、10月に鎮静をみるまで、わずか4カ月ほどで数十万の死者を出したという。

 ミシシッピ号の例でもそうだが、新しい病は当時海外へ開いていた唯一の港である長崎から入ってきているようだ。一方で、十三湊(青森県)から拡がったと思われる流行もあり、また長崎から拡がったとされながら地元にはまったく記録がないという、時の政治家たちが長崎に責任を押しつけたのではないかと思われる例もあった。

 さて、では当時の人々はどうやって病と闘ったのか。当時の記録を見ると、感染の拡まりに対して幕府は人流抑制を命じたようだ。幕府役人の勤務時間半減、供人数の削減、大名、旗本などの交流も禁止している。また、庶民たちも病は風が運んでくると考え、できるだけ外へ出ないようにした。

 その結果、江戸の町に人影は1人、2人しかないと随筆に書かれるほど激減し、数カ月でほとんどの流行を制している。現在と同じやり方である。対処法がまだ見つかっていない伝染病には、原始的ではあるが人と人の触れあいを極力減らすしか抑える方法はないのだ。しかし、昨今の状況は感染を抑え込めたとは言えない。確かに人口の急増、諸外国とのやりとりの拡大など、状況に変化はあるが、人々が病を怖れなくなったのも原因ではないだろうか。

 医療の発達は人の寿命を延ばし、不治の病と言われたものをいくつも克服してきた。歯科の世界も100年前とは雲泥の差である。これから先も歯科医療は進化する。よく噛むことで免疫力が上がるという研究結果もある。健康寿命を歯科が左右する時代は近い。しかし、そのときが来ても決して病を軽視することなく、怖れを持ち続けてほしい。そして、いつか歯科医療が未知のウイルスに勝利する日が来ることを期待してやまない。

著者

上田秀人

作家・歯科医師
(うえだ・ひでと)

上田秀人 (うえだ・ひでと)

1959年 大阪生まれ。大阪歯科大学卒業
1997年 第二十回小説クラブ新人賞佳作「身代わり吉右衛門」でデビュー
2011年 第十六回「孤闘 立花宗茂(」中央公論新社刊)で中山義秀賞受賞
2012年 開業していた歯科医院を廃業、作家専業となる
日本推理作家協会会員/日本文芸家協会会員/日本歯科医師会会員

【主な作品】
禁裏付雅帳シリーズ(徳間文庫刊)
日雇い浪人生活録シリーズ(ハルキ文庫刊)
聡四郎巡検譚シリーズ(光文社時代小説文庫刊)
百万石の留守居役シリーズ(講談社文庫刊)
本懐(光文社刊)