食いしばり

No.178

t時代小説を書いていると、剣術とのかかわりが強くなる。精神修養と身体壮健を目指す今の剣道ではなく、いかにうまく相手を殺すかということを突き詰めた剣術のほうだ。

 そのなかでも柳生新陰流という名前には、諸兄もご記憶があるのではないだろうか。戦国時代の終わりごろ、上泉伊勢守信綱の教えを受けた柳生宗厳によって編み出された柳生新陰流は将軍家お家流になり、江戸時代を通じて隆盛を誇った。

 その柳生家を大名にしたのが、宗厳の五男であった宗矩であった。宗矩は幕府の大目付(当時は惣目付といった)になり、多くの外様大名を取り潰す辣腕を振るい旗本から大名へと出世した。その息子が今回の主人公である宗冬である。時代劇で有名な兄柳生十兵衛の死によって家督を継いだ宗冬は、父や兄に劣らぬ剣の達者であった。その宗冬の墓が改装されたとき、副葬品として柘植の総入れ歯が出てきた。

 当時、世界最古の木製総義歯として話題になったこれにはいろいろな解釈が生まれた。なかでも有名なのが、柳生家は隠密であるから変装するために総義歯を使われたというものであった。つまり、自前の歯を抜くことによって唇や?を落ち込ませ、老人に扮したと言うのである。だが、これは言うまでもなく誤りである。まず、大名が隠密をすることはなかった。隠密を抱えていることはあっても、本人が現場へ出ていくことはない。隠密は見つけ次第討ち果たしていいのだ。もし、宗冬が隠密として露見、殺されれば柳生家は取り潰しになる。

 なにより宗冬は剣術遣いなのだ。1651(慶安4)年には、3代将軍家光の前で剣術上覧をするほどの腕を誇っている。なにせ、将軍の剣術指南役として役目を降りるまで、天下最強を誇らなければならないのだ。その宗冬が重い日本刀を振り回し、止め、切り裂くという激しい動きを支える歯を抜くとは思えない。

 野球界の至宝、王貞治氏がホームランを量産するために食いしばりを繰り返した結果、奥歯がぼろぼろになったという話は諸兄もご存じだろう。

 当時としては長命な63歳まで柳生宗冬は生きた。おそらく役目を息子に譲るころには、重ねた稽古と試合のおかげで歯のほとんどを失ったのではないだろうか。いや、歯を失って、動きに往年の切れをなくしたことが、身を退かせる原因になったのかも知れない。そう思ってみれば、発掘された総入れ歯は、剣術遣い宗冬の慟哭に見える。

 ここ一番というとき、人は歯を食いしばる。食いしばることで力を得て、障害を乗りこえる。その歯を守るのが私たち歯科医師の仕事なのだ。なんとも誇らしく、そして重いものである。

著者

上田秀人

作家・歯科医師
(うえだ・ひでと)

上田秀人 (うえだ・ひでと)

1959年 大阪生まれ。大阪歯科大学卒業
1997年 第二十回小説クラブ新人賞佳作「身代わり吉右衛門」でデビュー
2011年 第十六回「孤闘 立花宗茂(」中央公論新社刊)で中山義秀賞受賞
2012年 開業していた歯科医院を廃業、作家専業となる
日本推理作家協会会員/日本文芸家協会会員/日本歯科医師会会員

【主な作品】
禁裏付雅帳シリーズ(徳間文庫刊)
日雇い浪人生活録シリーズ(ハルキ文庫刊)
聡四郎巡検譚シリーズ(光文社時代小説文庫刊)
百万石の留守居役シリーズ(講談社文庫刊)
本懐(光文社刊)