No.181

no181image ずっと変わらないことを十年一日と言うらしい。

 あまりいい意味では使われないようだが、平和の証拠と言えるかも知れない。世情が不安であると同じことを繰り返す余裕もなくなる。とくに食事が影響を受ける。安定した供給がなければ、同じものを続けて食べることはできないからだ。

 諸兄にお伺いしたい。どうやれば奥歯に毒を仕込めるのだろう。この毒には条件がある。即効で致命し、解毒しにくいものでなければならない。そんな危険なものを、話し、食べるだけでなく、食いしばり、歯ぎしりする奥歯に仕込めるだろうか。しかもいざというときには、簡単に使えなければならないのだ。

 歴史学者の方に伺うと、人類はおよそ百年に一度くらいのペースで戦争をしているという。そうだとすれば、江戸時代は二百年以上、戦争をしていない希有な時代と言える。

 その平和のおかげか、徳川家のトップ将軍家の食事は十年一日のごとく変化の少ないものであった。とくに朝食は正月を除けば同じメニューだったらしい。飯と汁、そして魚のキスが朝食の膳に並んだ。これはキスが魚偏に喜ぶ(「鱚」)と書く縁起物ということが理由で、毎朝日本橋の魚河岸からキスが二十匹、江戸城へ献上されていた。このキスが二匹ずつ、塩焼き、山椒付け焼きと味付けを変えて、将軍、その妻、そして長男に供された。

 将軍の妻のなかには、キスに飽きて食べずに下げさせた例もあるらしいが、将軍はそうはいかなかった。どれだけ食したか、きっちり記録されるからである。下手に残そうものならば、体調が悪いのではないかと医師が大挙して押し寄せることになる。そうなっては面倒なので、将軍は出されたものをすべて平らげなければならなかった。

 これだけで将軍の朝食は終わらなかった。将軍は食事中に奥医師という天下の名医数人によってその日の健康状態が確認された。食べ終わってからでいいと思うのだが、なぜか食事中に脈を取り、舌の状況を診る。ここで異常があれば、当番の奥医師が全員集まって治療法を話し合う。

 さて、こうやってみるとしっかりとした健康管理に思える。ところが、もっとも肝心な脈を取るのが、糸脈なのだ。糸脈とは高貴な方の肌に直接触れるのは無礼に当たるとして、患者の手首を絹の布で包み、その上に絹糸を巻いて、少し離れたところから糸を引いたり緩めたりして、脈を測るという漢方の技である。実際にやって見ればわかるが、脈なんぞわかるはずもない。となると、将軍の健康状態を診られるのは舌の視診だけになる。食事中なので、そこまで正確は期せないが、それでも糸脈よりもましである。

 血液検査はもとより、聴診器、血圧計のない時代、天下第一の重要人物の健康は舌の状態だった。科学の進んだ今でも、舌で見つかる病は多い。貝原益軒が著した『養生訓』にもあるように口は健康の要。歯科医師は、より一層注意して診断に当たらなければならない。

著者

上田秀人

作家・歯科医師
(うえだ・ひでと)

上田秀人 (うえだ・ひでと)

1959年 大阪生まれ。大阪歯科大学卒業
1997年 第二十回小説クラブ新人賞佳作「身代わり吉右衛門」でデビュー
2011年 第十六回「孤闘 立花宗茂(」中央公論新社刊)で中山義秀賞受賞
2012年 開業していた歯科医院を廃業、作家専業となる
日本推理作家協会会員/日本文芸家協会会員/日本歯科医師会会員

【主な作品】
禁裏付雅帳シリーズ(徳間文庫刊)
日雇い浪人生活録シリーズ(ハルキ文庫刊)
聡四郎巡検譚シリーズ(光文社時代小説文庫刊)
百万石の留守居役シリーズ(講談社文庫刊)
本懐(光文社刊)