婀娜な年増にゃ、間夫がいる

No.182

no182image 艶っぽい題だが、色気のある話ではない。
 これは江戸時代に逸はやった都どどいつ々逸※1の一つで、正式には「赤襟さんでは 年季が長い、婀娜な年増※2にゃ 間夫がいる」らしい。日本の伝統芸能というか、風俗であるが、今は説明しないと訳がわからない。
 「赤襟」とは、芸妓の修業に出たての半人前を言う。「年季」は今で言う契約期間にあたろうか。「婀娜な年増」とは、いい女ととらえてくだされば結構だ。さて、最後の「間夫」だが、これは『まおとこ』ではなく、『まぶ』と読み、表に出せない恋人のこと。それを踏まえて、最初の都々逸を現代風に直すと「デビューしたての芸妓は契約が長いので、吾がものにするには時間がかかる。年季明けの近い年増には、しっかり恋人がいる」だろうか。
 何の話かと戸惑いを覚えておられるだろう。じつは口臭についてである。
 日本の歯磨きについて最古の記録は平安時代に成立した『医心方』という古文書だとされている。当時の宮中医師が記したもので、これによると公家や僧侶など、当時の上級階級は歯磨きをしていたとわかる。しかし、武士や庶民に歯磨きの習慣はなかったようで、戦国時代になっても記録は見当たらない。
 当時はいつ死ぬかわからない状況にあり、とても歯磨きまで気が回らなかったのだろう。ゆえに泰平となった江戸時代に入ると、歯磨きは庶民まで拡がる。それでもまともに歯磨きをしていたのは、大都市の江戸くらいで、地方ではまだ日課にはなっていなかったし、磨いても朝寝起きがほとんどで、食後、就寝前はしていなかった。当然、そうなれば口臭は防げない。ここで冒頭の文章に戻るが、江戸期の遊女や芸妓は、客と閨ねやに侍はべっても、決してキスは許さなかったらしい。「身体は許しても口は間夫だけのもの」というのが、遊女たちの気概であったと記されたものが残っている。
 うがった見方かも知れないが、好きな男でもなければ我慢できないほど、当時の口臭は酷かったのではないだろうか。
 昨今、口臭を気にする人が増えた。マスク生活で自身の口臭に気付いたというのもあるだろうが、普通にエチケットとして他人に不快を与えたくないからだ。
 口臭の原因として、歯周病、齲歯などから来るものの他に、内臓系の疾患もある。疾病の早期発見にも繋がる口臭は、これからますます重要視されていくのはまちがいない。

 

※1)俳句や短歌と同様に音数律で楽しむ定型詩。俳句は五七五、短歌は五七五・七七であることに対し、都々逸はおもに七七七五で構成される。
※2)平均寿命が短かった江戸期、概ね16歳から18歳を娘、18歳から20歳を女盛り、20歳を越えると年増、25歳以上を大年増と称した

著者

上田秀人

作家・歯科医師
(うえだ・ひでと)

上田秀人 (うえだ・ひでと)

1959年 大阪生まれ。大阪歯科大学卒業
1997年 第二十回小説クラブ新人賞佳作「身代わり吉右衛門」でデビュー
2011年 第十六回「孤闘 立花宗茂(」中央公論新社刊)で中山義秀賞受賞
2012年 開業していた歯科医院を廃業、作家専業となる
日本推理作家協会会員/日本文芸家協会会員/日本歯科医師会会員

【主な作品】
禁裏付雅帳シリーズ(徳間文庫刊)
日雇い浪人生活録シリーズ(ハルキ文庫刊)
聡四郎巡検譚シリーズ(光文社時代小説文庫刊)
百万石の留守居役シリーズ(講談社文庫刊)
本懐(光文社刊)