歯医者をしながら女優をしています ~美人だね、先生。結婚しようよ~

No.150

150歯科医院を開業して4年が過ぎた。週に半分は外出し、高齢者施設で歯科衛生士さんと一緒に訪問診療を行っている。

 私が生まれて間もなく、私の両親の祖父母はみんな他界してしまったので、高齢者を身近に感じたことがなかった。そんな私なのに、縁あって多くの高齢者と接することになったから最初はなかなか大変だった。

 あまりにも汚い口腔内に後ずさりしてしまったり、治療についてこちらの考えとご本人、ご家族との隔たりの大きさにがくぜんとしたり。何度もやめようと思った。治療計画通りに進むことはほとんどない。設備の限られた施設内での治療には制限が多い。

 それでも、「なんとかなる」と割り切って続けているうちに、自分のなかで「発想の転換」が生まれた。 このような患者さんの多くは必ずしも最先端の治療を必要としていない。彼らの声にちゃんと耳を傾け、口腔内よりも「人間」を診ることが大切だ。そのことに気づくと、訪問診療が楽しくなった。

 高齢者と接していると、考えさせられることの連続だ。戦争体験物語、嫁姑問題、子供たちを心配する話。テレビドラマよりも興味深い内容がたくさん詰まっていた。 そのなかでとびきり面白い話をしてくれる入居者に、鈴木さんというおじいちゃんがいた。いつも私の顔を見るなり、いの一番に大声で言う。

 「美人だね、先生。結婚しようよ」

 「あらうれしい、でも奥さんに怒られちゃうからダメよ」

 会うたびに、この会話が繰り返される。鈴木さんは、戦争のころは日本軍の戦闘機乗りで、いろいろな武勇伝を語ってくれた。敵機から攻撃を受け、台湾の山奥に墜落しもうダメだと思っていたところ、地元の山岳民族に助けてもらったこともあったらしい。

 鈴木さんには認知症以外に大きな病気もなく、ゆっくりとだが自立歩行もできていた。戦闘機が墜落したときに操縦桿にぶつけて折ってしまった前歯だけが義歯になっていたが、自身の歯も多く残っているので、義歯の調整と週に一回の口腔ケアを行ってきた。

 ところが、鈴木さんが90歳の卒寿を迎える今年に入り、様子が変わってきた。

 いつもの「美人だね」の声に張りが消えた。歩くことが面倒だという理由で、口腔ケアも短時間でいいと言ってきた。4月に入ると横になって寝ていることが多くなり、5月には日を追うごとに食が細くなり、体も一回りも二回りも小さくなっていった。

 お年寄りの1年は、赤ちゃんと似ていて、変化がとても大きい。10年ほど施設へ通い続けるなかで、このことを痛感している。人生の最後に、人は急激に影が薄くなっていく。まさにロウソクの火が消えるように、鈴木さんの人生が幕を閉じようとしているのが分かった。

 6月の最初の週、施設を訪れると、鈴木さんのベッドからシーツがはがされていた。

 奥様からは「最後まで自分の歯で物を食べられた夫は幸せでした」という感謝の言葉をいただいた。死は誰にでも訪れる。人生の最後までしっかり噛み締めて食事することを手助けできるのが、訪問診療の一番大きな意義かも知れない。

 それでも、鈴木さんの「美人だね、先生。結婚しようよ」がもう聞けないのは、やっぱり、切なく寂しい。

著者

一青 妙

歯科医師・女優
(ひとと・たえ)

一青 妙 (ひとと・たえ)

1970年生まれ。父親は台湾人、母親は日本人。幼少期は台湾で育ち、11歳から日本で暮らし始める。 歯科医師として働く一方、舞台やドラマを中心に女優業も続けている。 また、エッセイストとして活躍の場も広げ、著書に『私の箱子(シャンズ)』(講談社)がある。