チベット仏教は密教であると言われる。
密教というと、何か仏教の中の一派のように思われがちだが、チベットにはそうした考えはない。むしろインド仏教を忠実に受け継ぎ、小乗、大乗、密教を包括的に集大成させた正統な仏教だと見なしている。
わが国の仏教は、ほとんどが顕教である。顕教とは仏典を学ぶことである。仏教に限らず渡来した書物を学ぶのが学問であるとしてきた習性がわが国にはある。
チベットの修行僧も、顕教を全て学び終えるのは最短で二十年、実際には三十年ほどかかると言われている。だから修行僧は人生のほとんどを顕教に費やしているわけで、途中で病気やその他で挫折する者も多く、密教まで進むものは入学した僧の一割にも満たないという。したがって、その一割の修行僧の中で意欲があり戒を厳守して師から許された者だけが密教の修行へ進める。密教の修行とは、観想法やヨーガなど密教独特の成就法であって、その目的は「空性」の悟りである。
観想法にもいろいろあって、青い空や赤い夕焼け空を見つめ続け、透明な空色に身体が染まるまで座り続けるとか、仏の世界を表す曼荼羅を凝視して神秘的な合一に達するまで瞑想する方法などがある。
インドで生まれた曼荼羅は、その形式はいろいろあるが、それぞれ独自の方法で世界と自己の同一性を示している。しかしそれを描くには図形や色、その配置などに一定の基準が定められてある。例えば色の三原色を混ぜ合わせると黒になり、光の三原色を合わせると白になるという原則に従っていて、胎蔵曼荼羅の中心は大日如来で「白」と定められている。その白光から派生する赤光は阿弥陀如来の色といった具合である。
曼荼羅に深い関心を寄せたユングは「曼荼羅的な図形は、秩序の、そして心の統合と全体性の原型であり、象徴という手段を通して対極にある存在どうしの熾烈な葛藤を調和へと導き、崩壊していた秩序を再統合し、その結果患者と世界が和解していくための有効な手段になりうる」と精神科医の立場で述べている。
チベット四千キロの旅も終わりに近づいた時、ラサの大昭寺の前で麦粒を右手から左手、左手から右手へと流していた修行僧を思い出した。あの時何をしているのかと僧に尋ねたら「一粒の麦も世界である」と答えた。一粒の麦が世界なら、一本の歯も世界なのだろうかと、ふと思った。
「歯は全体ですか、部分ですか」
カメラを覗いていた寺田さんは、何を言い出すのかといった顔をした。
「部分であり全体だよ、対象を正確に捉えるには科学も必要だし、なんでも空性から考えるチベット僧のようなわけにはいかない。大切なのは部分と全体を見るトンボのような複眼の目だろうな」