動作が極めて速いことを電光石火という。稲妻や、切り火(主人が出かける時、妻が石を打ち合わせて火花を散らすこと。一種の厄除けで時代劇でよくみられる)が瞬間に現れ、消えるさまから生まれた表現だとされている。難しい言葉だが、私は月光仮面などの特撮作品で知った。「電光石火の早業で…」という歌詞に覚えのある諸兄も多いと思う。
さて、電光石火の早業と讃えられた武芸が日本にはある。居合術のことだ。
その居合術だが、成立した時とその後ではかなり違ったものになっている。本来は、座った状態で襲われたときに対応するために編み出され発展してきたものだというが、戦国の頃には、座位、立位にかかわりなく抜き打ちの早さを主眼とするものになっていたようだ。
戦国期、抜刀術の名人に林崎甚助という人物がいた。林崎甚助が人を斬るとき、ただ鍔と鞘が当たる音がするだけで、刃の姿やその反射などは一切見えなかったと言われている。他にも幕末の薩摩藩士として有名な中村半次郎は、雨粒が庇から地に落ちるまでに三度斬ったという。
まさに電光石火である。
とはいえ、居合術の技も戦がなくなれば、宝の持ち腐れになってしまう。これはいつの世でも同じで、平和になれば武器は仕舞われ、武芸は武道へと変わる。道というのは、術と違い、身体を鍛えることで心を磨くことを目的とする。居合術も同じように変化した。
だが、江戸時代、居合術の疾さに頼って生きていこうとした浪人たちがいた。人通りのあるところで彼らは大声をあげて客集めをし、そこで居合抜きの技を見せる。それこそ抜く手も見せず、空中に投げた紙を細切れにする。ただの大道芸ならば、ここで投げ銭をもらうところだが、浪人の目的はそうではなかった。
「この早業で歯を抜いてみせる。痛みを感じる間もなく終わるぞ」
浪人は、患者さんを求めていたのだ。
まともな歯科の治療がなかった時代、歯の痛みから逃れる唯一の方法は抜歯しかなかった。当たり前のことだが、だらだらと抜かれたのではたまったものではない。もちろん、刀を抜くのと歯を抜くのとは違うが、実際、居合術のうまい浪人のもとには、抜歯を求めて人々が集まったという。なかには手品で紙吹雪を撒き散らし、刀を抜いていないことをごまかすろくでもない浪人もいたが。
江戸時代も現代も、いつの世も患者さんが求めるものは同じ。早く、痛くなく。ただ、治療する側もよく似たことを願っている。早めに受診してもらえば、まず痛むことなく、素早く治療は終わるのだから。