青っ鼻と汚い暖簾

No.116

「タカシ。また、袖で鼻を拭いたでしょう。」と母親に怒られた。小学校が終わると毎日のようtestに小川の流れる裏山で日の暮れるまで遊びまわっていた昭和30年代前半のことである。日が暮れて気温が下がるころ、青っ鼻(実際は緑色)は見事に口唇付近まで垂れ下がる。「一郎ちゃん、鼻、鼻」というと、一郎ちゃんは、顔を顰めた次の瞬間、青っ鼻を一気に鼻の中に吸い込んだ。残りはもちろん袖で拭く。家に帰ると、手足は真っ黒で、母親が手と足をタライに溜めた暖かいお湯で洗ってくれたことが思い出される。武蔵野は国木田独歩の散文詩的短編が日本人の自然観を一変させた場所である。

 現在、日本国民の1/3が花粉症やアトピー、喘息を発症しているとも言う。僅か数十年の間に生活レベルが向上し、抗生物質が感染を抑えてきた。その結果、世界一の長寿国となった。しかしその代償はアレルギーという形で戻ってきた。文明に対して、生体が発信した警告のように……。

 この原因には3つの要素がある。植林された150万ヘクタールにも及ぶ杉は、現在花粉を大量に放出する適齢期に到達しているという。そして住宅の心地よい空間には、家ダニの数が飛躍的に増加しているともいう。今では考えられないが、武蔵野の山では、友達と杉の木をけって花粉を落とし、全身花粉まみれになる遊びを楽しみとしていた。2つ目の原因はもちろん感染症の減少である。2005年11月に、アメリカでは新型インフルエンザ撲滅のために71億ドルを投じることを決めた。また、韓国のキムチに寄生虫がいる、いないで大騒ぎになった。感染症は本当に撲滅してしまうかもしれない。今では国民全員が潔癖症にならされてしまったようだ。昔は落ちたものも、拾って食べた私でさえ、その錯覚に陥っているようである。3つ目は、近代国家が生み出した大気汚染物質であることは間違いない。特に交通量の多い街道沿いでは交通量の少ない地区の何倍もアレルギー患者が多いという。

 さて、アレルギー発症のメカニズムは免疫系の異常である。感染に対応するTh1細胞とアレルギーを起すTh2細胞がバランスを保っていれば問題ないが、感染症にかからない現在、そのバランスは崩れTh2細胞の働く機会が増えてしまう。つまり、アレルギーを抑えるには、感染を起しTh1の活動の機会を増やす、例えば細菌性ワクチンを開発すればTh1細胞が間違って働き始めて……という発想になるのである。これが現代医学であるが、今後どうなることやら……。

 昔の武蔵野には、アレルギーの人間はいなかった。そして現在でも発展途上国にアレルギー患者をみることはできない。きれいな環境にきれいな子供、きれいなレストランそしてきれいな女性……。敬遠される白熱灯が下がった汚い暖簾をくぐり、カウンターに座ると、それは、それは汚いエプロンをかけたオヤジがいて、目の前を足早に通り過ぎる怪しい虫がいるラーメン屋が私は今でも好きである。今のところ私にアレルギーはない。

著者

井上 孝

東京歯科大学臨床検査学研究室・教授
(いのうえ・たかし)

井上 孝(いのうえ・たかし)

1953年生まれ。1978年東京歯科大学卒業。2001年東京歯科大学教授。幼少時代を武者小路実篤、阿部公房などの住む武蔵野の地で過ごし文学に目覚め、単著として『なるほど』シリーズを執筆。大学卒業後母校病理学教室に勤務し、毎日病理解剖に明け暮れ(認定病理解剖医)、“研究は臨床のエヴィデンスを作る”をモットーにしている。