No.120

「よし、井上、最後決めろ…」と大きなコーチの声が体育館に響いた。静寂の中、床運動での最後の着地に入るときであった。「よし、止めるぞ」と心に言い聞かせ、最後の助走に入った。側test転、後転、そして渾身の力を込めて後宙返りの踏み切りをした。その瞬間「バキッ」という聞いたことのない音が聞こえたかと思うと、そのまま空中で回転が止まり頭から床に落ちた。1960年代、体操日本全盛の、小生高校2年生の時である。

 今考えると、その「バキッ」は、抜歯において歯根膜を断裂するときの音に大変よく似ている。現在アキレス腱が切れた場合には、手術とギプスの2つの方法がある。2つの違いは、筋力の低下と再断裂の頻度で、手術で治療した方が非腹筋の筋力の低下が少なく、再断裂率も1~2%少ないと言われている。しかし、1960年代に整形外科などあろうはずもない。奇しくも井上外科という名の小病院に運ばれた私は、手術を余儀なくさせられた。腰椎麻酔の意識清明の中、二人の医師が手術中に本を見ながら、執刀者が「これでいいんだよな…」と介助者に聞くと、「多分いいと思いますが、もう少し縫った方がいいのでは…」などの会話が聞こえる中、わずかな不安が過った。もし現在、「先生、ここでいいでしょうか?」「いや、もっと右だ…、馬鹿血がでたぞ…」と臨床研修医と指導医の会話が患者に聞こえれば、即患者は訴えることは間違いない。話を戻して、流石は外科医である。その後、手術したアキレス腱は引き攣ることはあっても、再び体操をしても筋力は衰えもせず、二度と切れることはなかった。しかし、数年後反対側のアキレス腱が切れた。

 骨格筋が骨に付着するために骨格筋と骨の間を仲介する結合組織性の伸縮性のない腱が存在する。それゆえ、無理に引っ張ると切れてしまう。アキレス腱を代替する方法は今のところないので整形外科医は、断裂した腱をつなぐことに最大の努力を払う。一方、歯根膜は、もちろん腱ではない。歯と歯槽骨を結ぶという意味では靱帯(骨と骨を仲介する線維)であるが、歯周組織の栄養を司り、感覚機構を備え、恒常性の維持を保つ、細胞成分に富む立派な器官であると思う。歯科医師は、この歯根膜靭帯を断裂させること(脱臼)でバキバキバキという音を楽しむかのように歯を抜く。大切な、大切な器官であるのに。この、歯を抜くという発想は、義歯やインプラントがあるという大前提からであろう。歯根膜は、1本、1本の歯牙のアキレス腱であると思う。簡単に歯を抜いて義歯やインプラント…という発想が歯科医療の発展性を違う方向へ導いてきたように思う。アキレス腱を切ったことのある、一歯科研究者の戯言である。

著者

井上 孝

東京歯科大学臨床検査学研究室・教授
(いのうえ・たかし)

井上 孝(いのうえ・たかし)

1953年生まれ。1978年東京歯科大学卒業。2001年東京歯科大学教授。幼少時代を武者小路実篤、阿部公房などの住む武蔵野の地で過ごし文学に目覚め、単著として『なるほど』シリーズを執筆。大学卒業後母校病理学教室に勤務し、毎日病理解剖に明け暮れ(認定病理解剖医)、“研究は臨床のエヴィデンスを作る”をモットーにしている。