No.121

「あー、お父さん、大変、大変…」と大きな声とともに女房が私の枕元から抜けた毛を1本持って走ってきた。そして、風呂から上がった私を見て「あーあー、やっぱり詐欺よね…」と肩を落としtest溜め息をついた。確かに鏡に映った自分の姿は悲惨である。洗った頭は平家の落人をも髣髴させ、プックリと膨らんだ腹は飢餓性浮腫を想像させ、廃用萎縮をうけた筋肉は鳥のガラを…。

 高校時代に器械体操で鍛え上げた身体は、体重54kg、胸囲105cm、腹囲67cmの逆三角形で、髪はフサフサであった。その体形を保ったまま女房と知り合い結婚したのだから、詐欺と言われても仕方ない。二人いる子供達も父親の話を信じない。現在、体重72kg、胸囲96cm、腹囲88cmのそれはそれは素敵なメタボリック体形なのだから…。「そうだ、フィルムがある」と唯一残っている、昭和46年の東京都高等学校大会の8ミリフィルムを押し入れの中から探し出し、写真屋でやっとのことで映写機を借り、意気揚々として女房と子供を映写機の前に座らせた。「なに、なに、なにが始まるの…」と目を輝かす家族に、「いいから、黙ってみていなさい」と自信ありげに一言。家族全員の目が映写機に注がれるなか、ガタ・ガタ・ガタ…と映写機が動き出し、何やら床の上で宙を舞う人間らしきものが浮き上がった。「ど、どうだ。すごいだろ」と聞く私に、「何が?」と私の顔を見る子供達。「何がって、今宙返りしたのは、若い時のお父さんだぞ…」「うっそー。絶対に違う」と。確かに、当時の室内競技は暗い照明もない体育館の中での8ミリでは、とても本人を同定できるものではない。「何を言ってる、お父さんだ。お父さん…」と必死に説明する私に、子供達は「お父さん、いつも嘘はついてはいけないって言ってるのに…。いくら若いときだからって、お父さんがあんなにスマートで毛がフサフサなはずがない…」と。すると、女房が口を開いた「…あれはお父さんよ。昔は格好よかったのよ」と寂しそうに言った。次の瞬間、子供達の目線が私の全身をなめるように見つめながら「ありえない…」という無言の言葉が聞こえてきた。

 その次の日から、私を見ると長男は「あーあー、俺もこうなっちゃうのか…」と、そして長女は「彼氏のお父さんをみてから決めよ…」と。でも、女房だけは私の髪の毛を増やす様々な薬を買ってきては、試し、「わー、うぶ毛が生えてきた…。フサフサになったらどうする?…」と楽しそうにしている。元の私に戻すプロジェクトだそうな。

 さて、一本の毛も一本の歯も条件はまったく一緒である。被覆粘膜から何やら突出しているのだから。毛は周囲に皮脂腺を配備しているために、角詮ができると感染が起こり、毛包の代謝が落ちて抜けていく。その病態は歯周病によく似ている。最近ではDNAに原因があるとの報告も出てきた。1本でも歯がなくなると騒ぐ我々歯科医師が、生物学的にも同じ仲間の毛を生やす研究をしないのはおかしい…と思うのは私だけであろうか。そっちの方が絶対に儲かるのに…。

著者

井上 孝

東京歯科大学臨床検査学研究室・教授
(いのうえ・たかし)

井上 孝(いのうえ・たかし)

1953年生まれ。1978年東京歯科大学卒業。2001年東京歯科大学教授。幼少時代を武者小路実篤、阿部公房などの住む武蔵野の地で過ごし文学に目覚め、単著として『なるほど』シリーズを執筆。大学卒業後母校病理学教室に勤務し、毎日病理解剖に明け暮れ(認定病理解剖医)、“研究は臨床のエヴィデンスを作る”をモットーにしている。