医は仁術、薬は忍術
No.192
まず幕府の医師を地位の高い順に並べてみる。
典薬頭 …… 今大路家と半井家の世襲制で、世襲できる収入(家禄)として一千石ほどを与えられている。医者を取りまとめるのと幕府薬草園を管理するのが役目で、臨床はしない。
奥医師 …… 民間から抜擢された名医。二百石高 ※1)、または現物の米を二百俵ほど与えられ、将軍とその家族だけを診察した。
御番医師 …… 城中に詰め、役人や大名の急病・怪我に対応する。役高 ※2)二百俵で、それに届かぬ小身には百俵が与えられた。
無禄の寄合医師、三十人扶持の小普請医師は、奥医師、御番医師として召し出されるのを待った。他に貧民救済のために作られた小石川療養所に勤務する医師もいた。これは経験や担当科によって手当が上下した。
では、これらの収入はどうなっていたのか。典薬頭の今大路家を例に計算してみる。
幕府の旗本は四公六民 ※3)に合わせて年貢を徴収して収入としていた。一千二百石の今大路家の実収入は四百八十石となる。江戸時代を通じて一石は一両と考えてよく、四百八十石は精米での目減りを除外するとおよそ四百四十両となる。ここで問題になるのが、一両は現在でいくらになるかである。米の値段で推し量るのは、現在と江戸時代の米価に差があるためふさわしいとは思えない。これも正確とは言えないが、一家四人が一両あれば一カ月ほど生活できたとされていることを基準にすれば、およそ一両は二十万円ほどに相当するのではないか。そこで四百四十両の今大路家の年収を現在に置き換えると、おおよそ八千八百万円になる。しかも無税、なんとも高収入であるが、旗本には軍役というものがあり、いざというときのために一定の数の兵を常備していなければならなかった。これが一千二百石だと二十七人、これだけの人を抱える。八千八百万円の年収でも余裕などは一切なかっただろう。いつの時代でも人件費は大きい。では、どうやって儲けていたのか。それが薬であった。医は仁術という考えを基に幕府から禄をもらっている。治療費を取ることはできない。結果、薬で利を生むしかなく、すさまじい金額を要求した。
ジェネリックを推進する現在ではありえない、まさに忍術であった。
※1)二百石の米を生産可能な土地。
※2)その役目に就いたことで得られる手当。
※3)四割を年貢として収め、残りの六割を自分たちの取り分とした年貢率。