首実検
No.193
さて、古代から近世に至るまでの戦で、勝敗をあきらかにしたのはなにか。敵将の首であった。それゆえ、首を獲ることに固執した。
まず、首は人物を鑑定するうえでもっともあきらかな証拠だ。写真や映像のない時代、本当に討ち取ったかどうかを確認するには、首が確実である。双子や兄弟など顔の似ている者もいるし、そこから派生した影武者もありうるが、それでも首があれば勝利の声があげられる。他にも、首を切ってしまえば相手の死が決定する。とくに死者が蘇るとの迷信が根深かったときには、首と胴を別々に埋めるなど宗教的な意味合いも深かった。
このことを踏まえて、日本での一例をお話ししたい。
判官贔屓ということわざにもなっている源義経のことはご存じだろう。平家を滅ぼし源氏の時代を立ちあげたにもかかわらず、将軍となった兄の源頼朝から嫌われ、かばってくれていたはずの奥州藤原家に裏切られて自害した悲劇の天才武将である。
その義経の死の報告を受けた頼朝が、首実検(現物の首を検分)をすると言い出し、義経の首は腐敗を防ぐために酒の中に浸けられて奥州平泉から鎌倉まで運ばれた。
新幹線や高速道路のない時代である。義経の首は鎌倉に着くまでじつに43日もかかったという。言わずともおわかりだろうが、それだけの時間を掛けたら、いくら酒に浸けているとはいえ、アルコール度15%ほどでは保たない。腐敗し、かなり臭いもきつくなっていたはずである。そのせいか、頼朝は自分ではなく部下に検分させている。まあ、義経の首だと確認できたかどうかはわからないが。
いくら鎌倉時代でも岩手から鎌倉まで43日もかかるはずもなく、わざと手間取ったのだろう。義経生存説、義経=チンギス・ハン(モンゴル帝国皇帝)同一人物説など、それが歴史ロマン誕生の発端となったのも無理はない。
なんとも興味深いではないか。残念ながら歯形や遺伝子で照合でき、結果に恣意が入る隙がない現代ではありえない話だ。