洞窟形成と窩洞形成

No.126

「ねえ、タカちゃん、○○町で誰か殺されたんだってさ」ネリちゃんが言った。「え?ヒトが殺さtestれたの?なんで?」と聞き返す私に、ネリちゃんは「知らないよ」と。昭和30年代、子どもが殺人などまず見たことも聞いたこともない時代である。タカちゃんは私の愛称、ネリちゃんは現代派安部公房の長女で私の仲の良かった同級生である。

 記憶に新しい秋葉原での凄惨な事件、驚愕の少年犯罪が渦巻く昨今である。ある統計によると今の日本を安全と感じている日本人は40%程度とか。その1番の理由は少年非行、自殺などの社会問題、2番目が犯罪などの治安の悪さ、3番目には雇用や年金などの経済的見通しのなさ、そして4番目に医療事故など医療への不振(43%)、食品の安全、教育環境、自然災害への対応と続くという。私は思う。その原因は、1人で遊べるタマゴッチや画面の中で惨忍な遊びができるコンピュータゲームという代替友達であると。

 武者小路実篤や安部公房がいた武蔵野の地で育った私の遊び道具はシャベルとスコップであった。学校から帰れば、納屋へ一直線、そして大事な遊び道具を背負って大自然へまっしぐら。かつての武蔵野は、フナ、ドジョウ、カメがいる水と緑が豊富な丘陵が続く自然の王国であった。急流の水を操り、匠に小川に穴を掘り、魚を追い込み、丘陵には、それは見事な横穴式住居をいくつも、いくつも作った。ある時は、溺れそうになり、またある時は崩落事故に遭い死にそうになったが、そこへ手を差し伸べ、掘り出して助けてくれたのは友達であった。

 さて、私は注水下における窩洞形成が得意である。大学で習う前から洞窟形成を学習してきたからであると思う。今、大学人となり、若い歯科医師を紹介すると、必ず友人や先輩に言われる。「井上、卒業したての奴は、いろいろとノウガキはよく知っているけど、いざ治療になると全然使い物にならないじゃないか」「すみません。なかなか患者さんを扱う実習ができなくて…」と言い訳する。学問的には、何らかの特殊な経験によって、それまでにない新しい行動パターンを意図的あるいは非意図的に身につけてしまうようなことを“学習”と呼ぶ。

 今の若い歯科医師が、注水下で窩洞を形成することが下手なのは、臨床実習のせいではない。小川や丘陵で遊んだことがないからだと思う。なぜならタマゴッチもコンピュータゲームの中の人物も、実際に学習させてくれることはないのだから。

著者

井上 孝

東京歯科大学臨床検査学研究室・教授
(いのうえ・たかし)

井上 孝(いのうえ・たかし)

1953年生まれ。1978年東京歯科大学卒業。2001年東京歯科大学教授。幼少時代を武者小路実篤、阿部公房などの住む武蔵野の地で過ごし文学に目覚め、単著として『なるほど』シリーズを執筆。大学卒業後母校病理学教室に勤務し、毎日病理解剖に明け暮れ(認定病理解剖医)、“研究は臨床のエヴィデンスを作る”をモットーにしている。