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歯が人生をおいしくする

No.197

image  食に関心が高く、おいしいものに目がない人たちは、総じてデンタルIQが高い。前回そう書きましたが、ある意味で当然のことですね。口が健康でなければ、どんな美食を前にしても意味を為しません。小さな口内炎ができただけでも、味わいが半減します。歯周病然り、動揺歯などもってのほかです。美食を愉しむためには口の健康が第一なのです。
 食に不可欠な〈噛む〉という行為には歯が欠かせないわけで、理想は天然歯ですが、たとえ補綴装置であっても、自然に近いものが望まれます。
 となれば当然費用も嵩みますが、美食家は歯牙にもかけず、最良の治療法を選びます。その結果充実した食生活を続けることができ、それが健やかな長寿にもつながるわけです。
 ここまでの話をまとめてみると、おいしいものを食べたいという欲が、口腔衛生状態を健康に保とうという意欲につながり、ひいてはそれが長寿につながる。すなわち美食は長寿の元、幸福の種になるというわけです。
 もちろん口だけではありません。足腰も丈夫でなければ健康とは言えませんし、頭脳も明晰とまではいかずとも、ある程度の機能は保ちたいものです。
 しかしその足腰や頭脳の健康にも歯がひと役買っているのだということを、作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんからお聞きしました。
 白寿を迎えられる直前までステーキを好物とされていた寂聴さんですが、おいしい肉を食べるために、人一倍口の健康を大切になさっていました。
 「入れ歯が合わないとね、山寺を真っすぐ歩けないし、小説だって書けやしない。ほんとうに歯は大事ね。歯医者さんって尊い仕事よ」
 作家を生業としながらも歯科医を続けているのは、寂聴さんの言葉を心に刻んだからでもあります。
 おいしい牛肉屋さんをご紹介したことが切っ掛けとなって、何度かお会いする機会を得ましたが、酔うほどに興味深いお話をされたのが印象に残っています。
 「困ったときは〈歯〉に頼るのよ」
 あるときそんなことをおっしゃいました。
 小説を書くのに、比喩や言い換えは欠かせませんが、〈歯〉を使った言葉を重宝しているという意味でした。
 先述した、歯牙にもかけず、もその一例ですが、そう言えば寂聴さんの小説には、〈歯〉を使った言い回しがしばしば登場します。もちろん他の作家さんもよく小説に使われます。
 寂聴さんの足元にも及びませんが、ぼくの小説にもよく〈歯〉が登場します。
 ――歯の根も合わない―― は恐怖や寒さで震えている様子ですし、――歯が浮くようなセリフ―― は白々しさを表します。〈歯〉に助けられて小説を書いているのです。
 人にとって〈歯〉がいかに身近な存在かという好例ですね。

著者
柏井 壽
歯科医・作家
(かしわい・ひさし)

柏井 壽 (かしわい・ひさし)

1952年 京都市生まれ

1976年 大阪歯科大学卒業

京都関連、食関連、旅関連のエッセイ、小説を多数執筆。

代表作に『おひとり京都の愉しみ』(光文社新書)、『日本百名宿』(光文社文庫)、『京都力』(PHP新書)などのエッセイ集、世界30ヵ国で翻訳出版されている『鴨川食堂』(小学館)や『祇園白川小堀商店』(新潮社)、『うみちか旅館』(小学館)などの小説がある。